研究所紹介  

イスラーム研究センターニューズレター Vol.2 No.1 

研究員紹介

 平成16年 6月15日発行 

■ イスラーム法入門(1) 
    イスラーム研究センター客員教授 有見 次郎

■ トルクメニスタンにおけるイスラーム事情
    イスラーム研究センター兼担研究員 中島 隆晴

 イスラーム研究センター・講演会報告
    シャリーア専門委員会委員長  武藤 英臣

 海外からの来訪者

  □ 
マレーシア・イスラーム国際大学大学院長訪問

  □ 
シリアのアブーヌール・イスラーム学院院長訪問

 お知らせ

  □ 
平成16年度第1回イスラーム講演会開催

 『シャリーア研究』発行のお知らせ

研究成果
 
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発行人 拓殖大学イスラーム研究センター
編集人 イスラーム研究センター主任研究員 柏原 良英

 
 

◆◇◆イスラーム法入門(1)◇◆◇ 
イスラーム研究センター客員教授  有見 次郎

  ◆◇はじめに

  信徒たるムスリム(イスラーム教徒)はアッラーへの服従と帰依とによって安寧と救済を求める。したがって信徒が現世において行うべき日常の諸行は、唯一にして無二、絶対者であるアッラーから示された公明な道、シャリーア(イスラーム法)に従わねばならないとされているのである。シャリーアの言語上の意味は、人間や家畜が水を求めてたどる道、水場にいたる道のことである。アッラーから啓示されたメッセージが、万物への規範として示されたシャリ−アとしての意味を持ち、イスラームにおける法の源泉となっている。

“われは真理によって、あなたがたに啓典を下した。それは以前にある啓典を確証し、守るためである。それでアッラーが下されるものに従って、かれらの間を裁け。あなたに与えられた真理に基づき、かれらの私慾に従ってはならない。われは、あなたがた各自のために、聖い戒律と公明な道を定めた。”(クルアーン5章48節)

 アッラーの啓示したクルアーンは、天使ジブリール(ガブリエル)が介在し預言者の封緘として遣わされたムハンマドに伝えられたアッラーのことばであり、イスラームの啓典である。イスラームにおける法源として揺ぎ無き位置にある。次いで優るとも劣らない法源として預言者ムハンマドのスンナがある。スンナは預言者ムハンマドのことば、行為、黙認事項であり、後にハディースとして集成され伝えられている。預言者のスンナはハディースに求められるのである。
◆◇1.イスラーム法の法源としてのクルアーンとスンナ
 クルアーンは、すべてのウラマー(イスラーム学者)が法の根拠とするところである。またクルアーンに次ぐ法源としてのスンナは、アッラーの言葉そのものではなく、預言者自らの言行等を意味するとはいえ、その意味内容は、常にアッラーの許から授かったのである。

 シャウカーニー(1760〜1834、イエメンの代表的法学者)の著述に依れば、「わたしはクルアーンを授かり、またそれと同様の事柄を授かっている」と預言者が語ったと言う。

 スンナがクルアーンに次ぐ位置づけは、クルアーンに明記されている。

 “われは明瞭な印と啓典とを、授け(てかれらを遣わし)た。われがあなた(ムハンマド)にこの訓戒を下したのは、かつて人びとに対し下されたものを、あなたに解明させるためである。”(16章44節)

 預言者ムハンマドのスンナは、単に礼拝や断食や巡礼と言った宗教儀礼的規範(イバーダート)に限定されることはなく、クルアーンに啓示されている明文を預言者自らの行動をもって範となし、さらに事項を明確化するのである。預言者としての資質を疑う者たちに対しては、次の章句が示される。

 “あなたがたの同僚は、迷っているのではなく、また間違っているのでもない。また(自分の)望むことをいっているのでもない。それはかれに啓示された、おつげに外ならない。“(53章2、4節)

 シャリーアの法源としてのスンナは、人びとの間の紛争を預言者が裁定を下していたのである。その判定を心から納得し、信頼することは、アッラーの許に服従、帰依したムスリムにとっては義務となっているのである。
 
 アッラーのメッセージであるクルアーンは言うに及ばず、預言者ムハンマドのスンナにシャリーアの法源を求めなければならないのである。
◆◇2.クルアーンとスンナの編纂
 クルアーンにおいて最後に啓示されたシャリーアに関する章句は5章3節である。

“今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの思想を全うし、あなたがたの教えとして、イスラームを選んだのである。”

 この啓示以後にはハラーム(禁忌)とハラール(合法)に関する啓示はなく、アッラーの懲罰に関する281節、

“あなたがたは、アッラーに帰される日のために,(かれを)畏れなさい。”

だけで、この啓示を最後に預言者は九日後に逝去したと伝えられている。クルアーンの啓示が預言者の逝去によって途絶えたと同時に預言者のスンナも同様に終えることとなった。

 イスラームの宗教共同体であるウンマの建設を聖都マディーナに求め聖遷(ヒジュラ)した預言者とその遷行者たち(ムハージルーン)、そしてマディーナにおいてかれらを迎え入れた援助者(アンサール)たちは、イスラームの法規範の適用を預言者の生存中は、直接かれに求めることができたのである。

預言者の死後のムスリムの拠り所は、クルアーンの暗誦者や預言者の行動を目の当たりにしていた教友(サハーバ)たちによって、正確に伝えられていたスンナである。

 ところが、預言者の死をもって喜捨(ザカート)の拠出を拒む背教者(ムルタッド)が現れた。それらとの戦いにおいて失われ逝くサハーバたちを憂い、初代カリフ(預言者の後継者)アブーバクル=アッスイッディークは、二代カリフ、ウマル=イブヌルハッターブの提唱によるクルアーン結集を始めた。やがてそれは三代カリフ、ウスマーン=イブヌアッファーンによって現在入手可能なクルアーン、通称ウスマーン版として完成された。

 一方のスンナについては、預言者の意図するところから記録が省かれ、ハディース(言行録)として逝去後2世紀を経て編纂されている。このシャリーアの法源としてのハディースの編纂は、イスラームの版図の拡大による地域差、また時を経て預言者と時を共有したサハーバたちも失われていく中にあって、イスラーム法学者の切実な要求から始められた。公正さを求められるシャリーアからすれば、極めて当然とも言えることでもある。

 それは、異なる地域、文化、習慣の中でそれぞれが個人的解釈(ラアイ)に基づく勝手な解釈の横行する有様となり、本来のシャリーアから逸脱する傾向を阻止することとなった。
◆◇3.イジュマー(法学者の一致)
 預言者、そのサハーバたち以降の時代になると、シャリーアの適用について、指示を求められたのは、クルアーンとスンナに精通するイスラーム法学者(ウラマー)たちの意見の一致である。

 “あなたがた信仰する者よ、アッラーに従いなさい。また使徒とあなた方の中の権能をもつ者に従え”(4章59節)

 “だがかれらがもしそれ(戦況)を使徒、またはかれらの中の権威を委ねられた者たちにただせば、それを判断できる。”(4章83節)

 イスラーム法学(フィクフ)とは、知識、理解を意味し、基本的にはクルアーンとスンナを基礎として、シャリーアに適用させる学問である。また、法源そのものを人為的に作り出すことのできないイスラーム法において、法学者の一致(イジュマー)とは、その学問的努力をいう。

 このような学問的努力も、ザーヒリー派(法学派の一つ。この名称は『クルアーン』とスンナのテキストの明白な(ザーヒル)な意味に依拠する、というこの学派の基本的態度に基づいている)ではイジュマーウに関して、特定の時代における意見の一致であって普遍性に欠けるとされ、また地域差ゆえに異なる意見を生むとして避けられている。しかし、初期イスラーム時代のイジュマーは認めている。
◆◇4.キヤース(類推)
 イジュマーに次ぐ法解釈学の原則の一つとして、キヤース(類推)がある。キヤースとはイスラーム法学の基礎を完成させたシャーフィイーによって、当時解釈上に主流を占めていたラアイ(個人的解釈)を退け、クルアーン、ハディース、イジュマーに次ぐ法源として確立された解釈であり、クルアーンやハディースに明記のない問題について、類似した事項から三段論法によって演繹される。

 キヤースを法源として認めるイスラーム法学者たちの中にあって、ザーヒリー派や一部のシーア派ではこれを否定している。

 ザーヒリー派の主張はクルアーンとスンナ、そしてサハーバたちの知力による言行に論証を求めることである。例えばクルアーンの中から次のような明文を見い出せる。

 “あなたがた信仰する者よ、アッラーに従いなさい。また使徒とあなたがたの中の権能をもつ者に従え。あなたがたは何事に就いても異論があれば、アッラーと終末の日を信じるのなら、これをアッラーと使徒に委ねなさい。それは最も良い、最も妥当な決定である。”(4章59節)

 彼らは、シャリーアについての具体的な記述をもってキヤースの必要性を否定する。シャリーアに従わねばならないことについては、異論の余地はない。しかし、キヤースが適用されることの証明として59章2節には、次のような明文がある。

“だがアッラーはかれらの予期しなかった方面から襲い、かれらの心に怖気を投げ込み、それでムスリムたちと一緒になって、自分の手で、かれらの住まいを破壊した。”

 そのようなことがあるから、信者は訓戒とするよう諭される。当時のユダヤ教徒のナディール族を例に、ムスリムといえどもかれらと同じ人間であるから、その行動が、もしかれらと同様になれば、同様の事態に陥るとの訓戒が導き出される。

 また他に例を見い出すならば、36章79節に

“言ってやるがいい。「最初に御創りになった方が、かれらを生き返らせる。」”

とある。これらの啓示は、アッラーから信者に与えられたキヤースの訓練であるとされている。

 キヤースを肯定するにしても、キヤースを行う者がその法源とするのは、クルアーンとスンナであり、それらのテクストの明文を確認したのちに初めてなされるのである。

【 編集より 】
 前回、シャリーア(イスラーム法)をいかに理解してもらうかということで、シャリーア専門委員の方々に座談会形式でお話しいただいて、その入門程度のことは分かっていただけたかと思います。そこで次の段階として学問的な体系としてのシャリーアの基礎を理解してもらえたらという意図の下に、このシリーズを当センター客員教授である有見次郎先生に寄稿してもらいました。これからシリーズで連載いたしますのでご愛読いただきたいと思います。

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◆◇◆トルクメニスタンにおけるイスラーム事情◇◆◇
イスラーム研究センター兼担研究員 中島 隆晴

 近年、中央アジアでは一時沈静化していたイスラーム原理主義勢力の活動が再び活発化している。3月28日から4月上旬にかけてウズベキスタンの首都タシケントを中心に全国規模で発生した連続爆弾テロ事件は記憶に新しい。またこれ以外にもタジキスタンやキルギスの山岳地帯でもアフガニスタン戦争の際に米軍から壊滅的打撃をこうむったはずのIMU(ウズベキスタン・イスラーム運動)を母体としたイスラーム過激派が再編成を終え、再び中央アジアへの浸透を狙って動き出つつあるとの報道もある。中央アジア地域は再びイスラーム過激主義の脅威に晒されつつあるが、唯一トルクメニスタンのみがこうした情勢に巻き込まれずにいる。なぜ同国は現在までイスラーム過激主義の脅威を受けずにすんできたのであろうか。現地滞在の経験も含め、中央アジアでも独特なトルクメニスタンのイスラーム事情について紹介してみたい。

 一般にイスラームが現在の中央アジア地域に伝播したのは約8世紀の事である言われる。しかし、トルクメン民族のイスラームへの改宗はウズベク人やタジク人ほどスムーズではなく、約300年から400年間という長い時間を経て達成されたと言われている。通常中央アジアにおけるイスラームの中心地は隣国ウズベキスタンが有名である。これは同国にサマルカンドやブハラといったイスラーム史の発展に大きく寄与した有名な都市が多数存在することに起因しているが、トルクメニスタンもけっして引けを取ってはいない。特に11世紀初頭に中央アジアに成立し、一時現在のトルコのアナトリア地方にまで勢力を伸ばしたセルチュク朝の時代、イスラム研究の中心は現在のトルクメニスタン地域にあったのである。

 この時期、現在のトルクメン地域には10を越える図書館が存在し、北部のキョヌルウルゲンチには多くの大学が開設されていた。当時中央アジアからは現在にその名を歴史に残す高名なイスラーム学者、文学者等が多数排出した。具体的な名を挙げると、イブンシーナ、ハレズミ、オメル・ハイヤム、マトゥルデザーリ等がいるが、彼らはすべてメルブ、キョヌルウルゲンチで教育を受けている。現トルクメン地域出身で、特に高名な学者として有名なのがユスフ・ハス・ハジップとカシュガル・マフメドの両名である。ユスフは当時のトルクメン社会について多角的な考察を行った著作を数多く残し、一方カシュガル・マフメドは「ディバン・ルガッティト」を著した。これはトルコ語系言語と民族文化に関する著作で、現在でも歴史的な名著として評価されている。

 こうした輝かしい歴史を持つトルクメンのイスラーム文化も近代になって衰退の一途をたどる。19世紀前半から現在のトルクメン地域を含む中央アジア全域は南下政策をもくろむ帝政ロシアの侵略にさらされ、抵抗もむなしくトルクメン地域は1918年にトルキスタン自治共和国に編入され、1925年にはトルクメン社会主義共和国が成立した。同時期に成立した他の中央アジア各国と同様、トルクメニスタンでも徹底したイスラーム文化の破壊と根絶が行われた。
 
 抑圧されてきたイスラーム信仰は、1991年の独立によってようやくトルクメン人の手に戻った。ニヤゾフ大統領はイスラームの習慣を全面的に解禁し、現在トルクメニスタンは中央アジアで最もイスラーム文化の開放に成功した国家となっているといえる。市内には多くのモスクが建立され、首都アシュガバッドには2000人を収容できる大モスクをはじめ、数多くのモスクが主にトルコ資本によって建設されている。

 また犠牲際などのイスラーム的な行事も全面的に解禁され、断食月における断食の励行などもテレビ、新聞、ラジオなどのメディアによって励行されている。礼拝したい者はいつでもモスクで祈りを捧げることができるし、イスラームをより深く追求したい学生は神学部で勉強し、トルコを中心としたイスラーム諸国へ留学することもできる。現在、トルクメニスタンでタブーとなっているイスラームの慣習はほとんどないといってよい。

 トルクメニスタンで自由なイスラーム信仰が全面的に許されているにもかかわらず、イスラーム過激派のような勢力の活動がほとんど見られないことは中央アジアでは例外中の例外であるといえる。事実、隣国ウズベキスタンではイスラム解禁の手法がほぼ同様に行われたにもかかわらず、イスラーム原理主義勢力の暗躍を呼び、タジキスタンでは1990年代前半からイスラーム勢力を含めた内戦すら経験している。

 なぜ、トルクメン民族のみが独立後十数年に渡って全面的なイスラーム文化の解禁を享受しつつ、イスラーム過激主義のようなマイナス要因の発生を防ぐことができたのであろうか。これについては様々な意見が出ているが、中央アジアにおけるイスラーム信仰の形態を研究した学者トラフィノフが鋭い指摘をしている。彼は中央アジアにおける各民族のイスラーム信仰の形態をいくつかのグループに分けたが、トルクメン民族のイスラーム信仰を極めて特殊なものであると結論づけ、それを「マハッラ・イスラーム」と分類した。マハッラ・イスラームの特色についてトラフィノフは「他部族を含めた伝統の共通性(年長者への敬意、普遍的な文化、習慣への共有)から生まれる広範かつ自由な信仰の形態である」と述べている。つまりマハッラ・イスラームとはイスラームそのものへの信仰というより、イスラームの美徳を規範として重視するいわば道徳に近いものなのである。

 実際にトルクメン人にとってのイスラーム信仰は生活を規定する絶対的なものではなく、我々日本人の宗教観に極めて似通っている。トルクメン人には飲酒する男性は極めて多く、訪問先ではアルコールを勧められることが一般的である。また多くはないが、豚肉を食する人もいる。2年間の留学中、多くの地を訪問し、数え切れない人々とイスラームの信仰について話したが、彼らは「神に愛されるよう正しく生きていくことが最も大切である」とした上で、飲酒等についても「節度をもって対応すれば全く問題ない」として杯を傾けていた。しかし、イスラーム的な慣習は彼らにとって大切な文化であることに変わりはなく、礼拝や断食も尊重し、実践しているのである。そこにはイスラーム文化の押し付けなど全く感じられず、極めて自然にイスラームが人々の生活に溶け込んでいることを強く実感したものである。トルクメニスタンの自由なイスラーム信仰を見るにつけ、ウズベキスタンやタジキスタンにおけるイスラームに関する厳しい現状が同じ中央アジアに存在することに改めて驚かされるのである。

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◆◇◆イスラーム研究センター・講演会報告◇◆◇
 イスラーム研究センター主催による第2回目の講演会が、平成16年1月24日午後1時半より文京キャンパスで開催された。今回の講師は、当イスラーム研究センター主任研究員である柏原良英氏に講演してもらった。講演のテーマは「イスラームと民主主義」という題で、80人近くの学生や一般の参加者を前に行われた。

 今回の講演の主題は、現在イラクに民主主義を定着させるという大儀の元にアメリカが行った戦争が未だに沈静化されないばかりか、イラクの政治状況は益々混迷を深めていることから、このような状況の中で、果たしてアメリカが求めている民主主義そのものがイラク国民またはイスラーム教徒にとって受け入れ可能なものなのかどうか検討をしてみることにあった。

講演では、まず西欧型の民主主義の歴史を振り返り、それが生まれた背景からその目指すものを確認 することから始まった。そしてそれが求めるものは、イスラームとどのような相違があるのかを理解した上で、イスラームの中に見る民主主義的な部分は存在するのかを検討した。その中からシャリーアにおける民主主義に相当するものとして、イスラーム社会の存在とともに存在してきたシューラー(協議)制度に注目し、西欧型民主主義の直接導入を求める欧米社会に対してイスラームに沿った形での民主的な政治制度は既に存在しており、改めて外部から導入するよりもイスラームの中にあるものを利用していくほうが合理的であり無理がないであろうと提案した。そしてシューラーと民主主義の制度的な相違は、シューラーの制度を現代社会に合ったものにすることは可能であることも提示された。

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◆◇◆海外からの来訪者◇◆◇

◆◇マレーシア・イスラーム国際大学大学院長訪問◇◆

 平成15年12月17日 マレーシア・イスラーム国際大学大学院長ザリーハ・カマルッディーン女史が当センターを訪問された。同大学と拓大は提携校として関係も有り、当センターとも学生の交流も含めた学術的交流などを積極的にやって生きたいとの要請があった。

◆◇シリアのアブーヌール・イスラーム学院院長訪問◇◆

 平成16年2月23日 シリアのダマスカスにあるアブーヌール・イスラーム学院の院長であるサラーフ・アル・ディーン・クフタロウ氏が当研究センターを表敬訪問された。氏とは昨年夏、森伸生イスラーム研究センター長とザキ・ムハンマド研究員がシリアを訪問した際、同学院を訪問し面会したのが最初の出会いであった。また同学院には拓大の学生も留学しており、その関係は以前から続いていた。今回の訪問でも更なる留学生の受け入れの用意があるとの話であった。話し合いは、シリアでアラブ料理をご馳走になったお返しに日本食の昼食をはさんでのものになった。話し合いの中で、氏は盛んに日本におけるイスラームのイメージが良くないのは正しいイスラームが伝えられていないためで、このよう研究機関が積極的にその役割を担っていくべきであると強調した。

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◆◇◆お知らせ◇◆◇

◆◇平成16年度第1回イスラーム講演会開催◇◆

題目: 「明治」はいかにイスラームと接したか −イスラーム学者有賀文八郎を通して−

日時: 6月26日(土)午後2時30分〜4時

講師: 四戸潤弥 同志社大学神学部教授
 
 日本におけるイスーラム受容は明治に始まったが、学問の対象として受け入れられ、欧米のオリエンタリズムと同様の立場から研究されたにすぎず、その状況は今も続いている。そうした中でイスラームを人生指針の教学として受容した初期日本人イスラーム教徒を通して明治のイスラーム事情を探る。

 

◆◇◆『シャリーア研究』発行のお知らせ◇◆◇
 当センターの年報『シャリーア研究』が発行されました。以下その内容をお知らせします。

     (論 考)

      ・現代における実践的シャリーアの一形態ファトワーの検証       森   伸生

      ・イスラームと民主主義                            柏原 良英

      ・イスラームにおける人権                            ザキ ムハンマド
         ―1400年にわたる概要―

      ・ハイジャックと飲酒                              徳増 公明

      ・イスラーム初期のスンナ                           有見 次郎

      ・イスラーム社会の女性の権利と一夫多妻の検討             四戸 潤弥
         ―イスラームの4人妻規定と預言者の多妻の理解を通じて―

      ・米国のイスラーム認識に対する疑問                      渥美 堅持
         ―イスラーム運動に対する米国認識への批判―

      ・インドネシアのハラール認証                        武藤 英臣

      ・トルクメニスタンにおけるトルコ系イスラーム団体の活動について  中島 隆晴


     (記 録)

      ・2003年6月 シンポジュウム「イスラーム世界は今・・・」

      ・第1回 イスラーム講演会「イスラーム教徒の日常生活とシャリーア」
                              講師 ムフセン・シャーキル・バィユーミー

 

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