◆◇シャリーアの諸規範
(前号から続き)
|
|
◆◇4.刑罰に関する諸規範 |
権利、公正を保つため健全な社会を樹立することを目的とする規範をいう。財産、個人、宗教などについて安全が求められるとき、その社会においてこれらの事柄に保障が求められないような罪を犯した場合、次の刑罰が定められている。
固定刑(ハッド)
同態復讐刑(キサース)
矯正刑(タアズィール) 固定刑については、クルアーンに「これはアッラーの掟である。」(第2章187節)とあるように、アッラーの定めた規則に反する違反行為に対して課される罰のことである。それらは姦通罪、中傷罪、窃盗罪、飲酒罪、追いはぎ・強盗、背教、横暴な不正行為の7種の犯罪があてはめられる。ただしここで飲酒、背教、横暴な行為については固定刑に含まれないとする者もある。
同態復讐刑は殺人、傷害に関する罰則である。クルアーン第2章178節に
「信仰する者よ、あなたがたには殺害に対する報復が定められた。自由人には自由人、奴隷には奴隷、婦人には婦人と。だがかれ(加害者)に、(被害者の)兄弟から軽減の申し出があった場合は、(加害者は)誠意をもって丁重に弁償しなさい。」とある。
正当な理由による以外はアッラーが禁じられた者を殺してはならない、とされる第17章33節の規定を破った場合、加害者に対して報復が認められている。そしてもし被害者の男系親族が報復を放棄して、加害者が被害者側にディヤ(血の代金)を支払うこともできる。これはセム族に息づく報復の連鎖を終止させる有効な手段として考えられる。しかしディヤの額は、殺人、傷害によって異なるが、必ずしもディヤが事態収拾の手段となっているわけではない。
矯正刑は固定刑、同態復讐刑以外のシャリーアに罰の規則のない刑罰である。
偽証、偽誓、贈収賄、詐欺等が含まれ、イスラーム社会を害するすべての罪に対して課せられる罰である。裁判官に裁量が委ねられている。
刑罰に関する諸規範の種類について述べたにすぎないが、これらの罪が果たして、現世か来世の一方で裁かれるのか、双方共にその罪が問われるのか、議論が分かれている。
|
◆◇5.平和と戦争に関する諸規範 |
一般国際法と呼べる分野で、イスラーム圏(ダールッ=サラーム)と、非イスラーム圏(ダール=ル=ハルブ)との関係の中で、ムスリムに規定される法規範であり、さらに被保護者(ズィンミー)、被安全保障者(ムスタアミン)、敵対する民たちにも及ぶ規範である。というのもイスラーム社会における法的規範の目的とは、安全と平和裡の中に和解を実現するという人間関係を作り上げることにあるからである。
「人びとよ、われは1人の男と、1人の女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあながたを互いに知り合うようにさせるためである。アッラーの御許で最も貴い者は、あなたがたの中最も主を畏れる者である。本当にアッラーは全知にして凡ゆることに通暁なされる。」(第49章13節)
ムスリムと被保護者の関係については、
「宗教に強制があってはならない。まさに正しい道は迷誤から明らかに分別されている。」(第2章256節)
とあるように宗教的自由を相互に認め合い、被保護者に対し決して宗教を強制しない。そしてムスリムはユダヤ教徒、キリスト教徒の女性と結婚できるし、その妻が教会に出かけることを阻止する権利は夫にはないこと。またかれらの宗教の合法とする飲食物についても規制はない、等々の自由を認め合うのである。
被安全保障者は、被保護者と同様の自由を保障されている。商売や使者として非イスラーム圏から入国した場合、諜報活動やイスラームを弱体化させる行動を取るのでなければ、かれらに安全が保障されるのである。非イスラーム圏(ダール=ル=ハルブ)の民に対しては、敵対する民として即戦闘状態や戦争行為に及ぶということではなく、まずイスラームへの改宗、布教が優先されなければならないとされ、次いでウシュル*やハラージュ*等の税金を支払うことによって平和と安全を得る被保護者の立場や、協定や条約による被安全保障者となることが認められるのである。したがって以上の規定にそぐわない民との間にだけ敵対する民としての規定がなされるのである。
このようにイスラーム法によって規定される事柄は、単に個人の宗教的内面生活ばかりではなく私的関係、イスラーム共同体内外での生活にまで詳細に及んでいるのである。
注 *印の語句
イジュマー(法学者の一致) クルアーン、スンナ(預言者の慣行)に次ぐ、イスラームの法源のひとつ。クルアーンとスンナにない問題の解釈についてイスラーム法学者たちの意見の一致をいう。
ウシュル(十分の一税) イスラーム国家内の信徒あるいは改宗者の土地に対してかけられる税。しばしばサダカ、ザカートと同義に用いられる。
ハラージュ(土地税) イスラーム国家内の非ムスリムに、土地の所有権を保証するかわりに課された税。 |
◆◇行為の区分と倫理 |
|
◆◇1.行為の五区分 |
イスラーム法では上記の規定を遂行するにあたって、人間の行為を次の五つに区分している。
@義務行為
A奨励される行為
B許容される行為
C嫌われる行為
D禁止行為
略述すると@の義務行為とは、アラビア語でワージブあるいはファルドといって、絶対に行わなければならない行為を示している。つまり、これを怠ると罰せられる行為である。四大法学派の一つハナフィー派は、この義務行為をさらにいくつかに分けて考えている。まずアル=ワージブ=ル=ムワッカタと、アル=ワージブ=ル=ムトラクとに分ける。
前述の「アル=ワージブ=ル=ムワッカタ」とは、時を限定された義務行為をいい、日々五度の礼拝時間や、ラマダーン月の断食などがこれにあたる。
次の「アル=ワージブ=ル=ムトラク」とは、時を限定されない義務行為をいい、宣誓などがあげられる。
また義務行為は個人的義務行為(アイニー)と集団的義務行為(キファーイー)とに分けられる。
Aの奨励される行為とは、マンドゥーブといい、好ましい行為を指す。すれば報償に値するが、しなくとも罰せられることはない行為である。一例として、貸借関係における義務の行為と好ましい行為との差異を、以下のクルアーンに求めると、
「あなたがた信仰する者よ、あなたがたが期間を定めて貸借する時は、それを記録にとどめなさい。」(クルアーン第3章282節)
「だがあなたがたが互いに信用している時、信用された者には託されたことを(忠実)に果たさせ、かれの主アッラーを畏れさせなさい。」(第2章283節)
となり、283節が義務の行為となり、282節は好ましい行為となる。
Bの許容される行為とはムバーフといい、善くも悪くもない、つまり、しても報償はなく、しなくても罰せられることはない行為をいう。この行為に関するクルアーンをいくつか挙げてみる。
「もしあなた方両人が、アッラーの定められた掟を守り得ないことを恐れるならば、かの女がその(自由を得る)ために償い金を与えても、両人とも罪にはならない。」(第2章229節)
「あなたがたはそのような女に、直に結婚を申し込んでも、または(その想いを)自分の胸にしまっておいても罪はない。」(第2章235節)
「食べ且つ飲め」(第2章187節)
このような範疇に入る規定は習慣や、してもしなくても害のない一般事項、また規定の解消や解約といった場合において許容される行為であり、かつ、クルアーンやスンナに反しないものとなっている。
Cの嫌われる行為とは、マクルーフといい、Aに対峙する行為である。つまりイスラーム法からすれば望ましくない行為であるが、特に規定される罰を受けるまでには至らない。しかしこの行為の過多は、来世において重要な意味を持つことになる。
「信仰する者よ、いろいろと尋ねてはならない。もしあなたがたに明白に示されると、かえって悩まされることもある。」(第5章101節)
Dの禁止行為とはハラームといい、この範疇に入る行為は罪となる。姦通や窃盗などのいわゆる刑法上の問題、また信仰儀礼に関する禁止行為として浄めのない状態での礼拝など、クルアーンやスンナにその規定が明記され、禁止されている行為である。
このようにイスラーム法の構造は、人間の行為が五つの範疇のいずれかに区分され、アッラーから示された公明な道であるシャリーア(イスラーム法)に従うよう求められている。
またイスラーム法において特質的な命令と禁止の明文化は、特に@とDに顕著であるが、しかしその行為の区分に関する法適用をめぐっては、学派や法学者による相違があり、複数の法学派やイスラーム法以外の法体系を重ねて採用している社会においても意見が分かれている。
ある一つの法学派が優位に立つ社会においては、倫理的範疇の区分であるA〜Cについて、しばしば法解釈が試みられ、ファトワー*(法的意見)が発令されることがある。
*ファトワー:ムフティー(イスラームの学識経験者であり、法解釈を下す資格を有する者)によってもたらされる法的意見のこと。 |
◆◇2.「善を勧め邪悪を禁じる」倫理規則の法的解釈 |
クルアーンやハディースには、善を自らに課し、邪悪を避けよという倫理的規定が多く見られる。立法者たるアッラーは、人間に理解力と思考力を授けられた。それゆえ、すべての人が善と認めあるいは悪とする事項については、その倫理的規定の多くを語らずとも人間に判断できないことはない。
法学者の多くは、善を行い邪悪を避けるということが人間としての義務であるとの立場において一致している。しかしながらその詳細については若干の相違をみせている。つまり、それが個人的義務なのか、それともその共同体の一部の成員がそれを行うことによって満たされる義務なのか、という点をめぐって意見が分れるのである。
これに関しては、共同体あるいはその成員に対する義務とする法学者の意見が圧倒的である。それを示すクルアーンの章句を見れば、
「あなたがたは一団となり、(人びとを)善いことに招き、公正なことを命じ、邪悪なことを禁じるようにしなさい。」(第3章104節)
「あなたがたは人類に遣された最良の共同体である。あなたがたは正しいことを命じ、邪悪なことを禁じ、アッラーを信奉する。」(第3章110節)
イブン・アラビーは、前の句はイスラーム共同体における一団の義務となり、後の句は共同体全体に関わる義務となると解釈している。つまり共同体全体に関する善悪であり、個人的義務としては、その中のある者がその行為を充足すればよいとしている。
しかしこの解釈に対して、信者個人個人の義務であるとする立場からは、次の節を挙げて反論する意見がある。
「かれはあなたがたの様々な罪を赦す。」(第14章10節、第71章4節)
この章句から、アッラーの赦しが信者個々人に遍く及ぶように、善を行ない悪を避けるという行為についても、これと同様の解釈が行なわれるのである。
さらにイスラームでは、無知な状態にある者、理解に欠ける者に対する責めはなく、むしろ信者とは、知識があり判断力のある理解者としてみなす。したがってすべての信者はイスラームの宗教的基盤となる事項をよく承知し、理解できるものであるとしているため特に共同体の一部の信者だけによる特別な行為とみなす必要性を認めないのである。
以上のことから、クルアーン注釈者のラーズィーが言うように法学者たちの解釈の相違は二つの理由からなっている。一つは意味内容、すなわち知識に関わる事柄として、他は言語上の事柄を言葉通りに解釈するためである。 |
◆◇2.イバーダート(信仰行為) |
イバーダートとは、前回イスラーム法学の基礎(3)において略述した、宗教的儀礼に関する諸規範を含む分野である。イスラーム法の諸規範の中でも、この分野は特に重要視され、また現世と来世における平安と救済を求める信徒が、特殊な勤行としてではなく、日常性の中にその行の達成を求められている規範である。
この宗教的儀礼に関する規範に属する分野は次の通りである。
1.信仰の告白(シャハーダ)
2.礼拝(サラート)
3.喜捨(ザカート)
4.断食(サウム)
5.巡礼(ハッジ)
これらの行為は、イスラームの基本である六信五行の五行に関する分野である。信仰の柱としてそれらに付随する事柄は、個人の義務としての行為にとどまらず、社会的な義務としてのそれにまで多岐にわたり、相互に関連しあっているのである。
さて宗教的規範の中に“邪悪を避けよ”という倫理規定を見い出すならば、次のクルアーンがある。
「悔悟して(アッラーに)返る者、仕える者、讃える者、斎戒する者、立礼する者、サジダする者、善を勧め悪を禁ずる者、そしてアッラーが定められた限界を守る者。これらの信者たちに、この吉報を伝えなさい。」(第9章112節)
イスラーム共同体が信者相互に対し人々の利益や知識となる模範的な例えを求められているのは事実である。行為の前において善を勧め悪を避けるためには、信と信仰の面において善を勧め悪を避けることが必要となる。その基本的要素として、人々に最大限に模範的行為を示すという意味で預言者の重要性があるといえよう。そしてイスラーム共同体は、預言者に代ってその重荷を課されているのである。
預言者は言う。
「善を勧め悪を避けることのできる人物とは、地上におけるアッラーの代理人であり、その使徒の後継者であり、啓典の後継者である」
(以下次号につづく)
▲上に戻る▲ △トップページに戻る△
|